日付が変わりましたが、5月19日は大宮駅の設置に尽力した白井助七氏の命日でした。
ウィキペディアによりますと、日本鉄道によって1883年に東京から北へ向かう初の鉄道である上野駅-熊谷駅間の路線が開業したとき、県庁所在地である浦和駅の次の駅は上尾駅で、大宮に駅は設けられなかったそうです。
開業当時、大宮宿から離れると243戸の家しかなかったことや、当時の蒸気機関車は牽引力が低く、短い間隔での駅設置はしないことが基本だったため、駅間距離が短くなってしまうことを防ごうとしたことが原因だったそうです。
しかし、後に大宮町長を務める白井助七氏などの地元有志は、町のこれ以上の衰退を危惧し、駅の敷地のために土地を提供すると提示して、駅の誘致運動を始めました。
こうした中、上野駅から青森駅へ向かう、現在の東北本線を建設する際に、高崎駅・前橋駅へ向かう路線のどこから分岐させるかが問題になりました。浦和・大宮・熊谷の3案があったそうですが、浦和分岐案は、経由する岩槻の住民が鉄道忌避を起こしたことなどもあり、最終的に大宮はその起点となる地として駅が設けられることになったそうです。
一方、1894年には、白井氏が提供した土地をもとに、駅の北に隣接して大宮工場(現:大宮総合車両センター・大宮車両所)が設置され、さらに日本の重要幹線の分岐駅という交通の要衝となり、以後大宮は「鉄道のまち」「東日本の玄関」として栄えるようになったとのことです。
白井氏の尽力を記念して、大宮区役所近くの山丸児童公園には、白井氏を顕彰する記念碑と蒸気機関車が置かれ、大宮ソニックシティ前の鐘塚公園には、白井氏の胸像が設置されています。
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